STARMANN

眩しくて 手を振れば 遠く輝いて瞬く星座

罪に殺され愛に生かされる男、ニース・ヤング~『ダーウィン・ヤング 悪の起源』

数年ぶりに広くんの作品についてブログを書けるだけの言語化が済んだので筆を取ったら、記事2本分になってしまった。ということで、今回は『ダーウィン・ヤング 悪の起源』の感想と考察<ニース・ヤング編>。書く書く詐欺しなかったので褒めてほしい。

前回のブログで、ダーウィン・ヤングの世界観と作品テーマについて私なりにひとつの結論をまとめた。
tea-miki.hatenablog.com
今回はその内容を前提・下敷きにしてニース・ヤングという人物を掘り下げていくので、先に前回の記事を読んでいただいたほうが「こいつ何言ってんだ」と思う頻度が2割減くらいにはなると思う。加えて前回の記事同様、日本版ミュージカルだけではなく原作小説と韓国版原曲の歌詞を踏まえた内容になっているのでご了承いただきたい(後半にかけてIQが急下降するのでそれもご了承ください

ニース・ヤング

罪に殺された少年

ニースは16歳の時、自分の父が12月革命に参加した元反乱分子であるということを親友・ジェイに暴かれ、自分のルーツに関わる父の秘密を守るためにジェイを殺害した。

大人になったらこの怪物は死ぬと思っていたのに
その時間の中に閉じ込められている
僕はこの瞬間も16歳
大人になれない


韓国版原曲『地下室の怪物』より


ニースの台詞にも「僕の人生は16歳で終わってしまった」とある。なぜ彼の時間は16歳で止まってしまったのか。


「青い空」との突然の別れ

大人になることとは、純潔で平等な子供の精神を利己的精神=大人の精神が淘汰していくことだと、前回の記事で結論付けた。そもそも純潔で平等な倫理観の喪失とは、何も殺人のような決定的なものには限られない。子供の頃は考えもしなかった悪いことをしたり、逆にいいことをできなくなったり、大人になれば誰もが経験したことがあるだろう。電車で人に席を譲ろうとしても「断られたら恥ずかしい」などと考えて動けなかったり、ジェイとバズのように、人に嫌味やいじわるを言ってしまったり。それは経験からくる自己防衛とも言える。大人の精神を獲得するとは本来そんなことでよかったのだと思う。

ニースとダーウィンの場合、それが殺人という極端なものになってしまった。もしかすると、彼らは純粋すぎたのかもしれない。

ジェイは、「入試にわざと失敗した」と見栄を張るバズを疑っており、一方のバズはジェイの家庭の事情を知り、弱みを握ったかのように嫌味を言っていた。16歳ならこれくらいの嘘や疑い、邪心を持っていておかしくない。
だが、ニースはどうか。彼はバズの嘘もジェイの嘘も信じており、なんなら大人になった今も、ジェイは自らの意志でプライムスクールを辞退したと信じている。ジェイは幸運に恵まれていて何不自由ない人生を送っていたと思い込み、彼が心に闇を抱えていたことすら知らずにいる。ダーウィンダーウィンで、階級制度の在り方に純粋な疑問をぶつけたりするところは、自分の出自を鼻にかけるクラスメイトとは違った素直さが見て取れる。

彼らはあまりにも純粋すぎたのだ。16歳になるまで、先に述べたような小さな悪事や罪悪感に一切関わったことがなかったのかもしれない。だからこそバズやジェイのように、秘密を知られてしまった相手の弱みを握り返してやり返すという方法を知らなかった。

『プライムスクール』の表現を借りるなら、本来なら人間は大人になる過程でだんだんと「青い空」から遠ざかっていくのに、ダーウィンとニースは、青い空の下を無邪気に駆ける時分に決定的な罪を犯したことで、そんな自分の世界とにわかに決別し「濁った空」の下を歩まざるを得なくなったのだ。


友との絆

ニースとダーウィンは、自分の家族の人生を覆しかねない秘密を守るために殺人という罪を犯した。ダーウィンの場合、それによって自身の純潔な倫理観を利己的精神が淘汰し、大人の精神を獲得するに至っているが、ニースは未だ純潔な倫理観を持つが故の罪悪感に囚われ、大人の精神を獲得できずにいる。両者の違いは何なのか。

それを解き明かす鍵は、他ならぬあのフードにある。なぜニースはフードを捨てなかったのか。これを疑問に思った人は多いだろうし、明確な理由は語られていない(と思う。見落としてたらごめん)が、私としてはなぜ捨てなかったのかは正直問題ではない。重要なのは、フードがニースにとっての何なのかである。『怪物』の曲中、ジェイの幻影がニースに向かって言う「フードは僕との絆(呪い)」というのがそのままこの答えだと私は考えている。

それでは、ダーウィンの場合はどうか。
原作では、レオが骨董品交換会でダーウィンにあげるのは遊園地の期限切れのチケットだった。その後しばらく登場しないが、物語終盤、クリスマスの休暇前に寮の片付けをしていた際ポロッと発掘されたそれを、ルミに憧れるきっかけとなった彼女の写真と併せて、ダーウィンが大事にポケットにしまう描写がある。ところが、レオのお葬式で、ポケットに入れたままになっていた写真とチケットを見つけたダーウィンは、チケットをあっさりと捨てて地面に踏みつける。そばで見ていたルミが思わず顔を顰めるほど杜撰な扱いだったという(ちなみにルミとはこの時から付き合い始める) つまり、チケットはレオとの絆だったのだ。

フードとチケット、二つのアイテムに象徴されるそれぞれの友との絆を断てたのかどうかがダーウィンとニースの最大の違いである。子供の頃の純潔な倫理観を捨て親友との絆をも断ち切ったダーウィンは罪悪感から解放され大人への一歩を踏み出し、フードを捨てられなかったニースはジェイとの絆を断つことができないまま罪悪感の牢獄に閉じ込められているのだ。


育たなかった大人の精神

ジェイを手にかけるまさにその時のニースの目には一切の迷いも苦しみもなかった。前回のブログで述べたように、この時のニースの中には利己的な精神が芽生えており、別人格に操られるようにして犯行に及んだのだと私は見ている。ダーウィンの場合は、最終的にこの利己的な精神が純粋な精神を淘汰し大人の精神へ進化しているが、ニースは純粋な精神と罪悪感を持ち続けているが故にこの利己的な精神が育たないでいる。もしくはこの利己的精神そのものが彼の言う「怪物」で、自己の中に芽生えた「怪物」をフードに宿るもののように見立てて地下室に閉じ込めて封印しようとしたせいで、彼の大人の精神は育たず、16歳の純粋な精神のまま罪悪感を捨てられなくなったのかもしれない。

いずれにせよ、淘汰されるはずだった16歳の純粋な精神だけが、まるでゾンビのようにニースの中に残ることになった。まさに「生きながらにして死んでいる」状態になったのだ。『怪物』のシーンで彼はフード(に宿った怪物)に向かって「ジェイが死んだ日にお前も死んだんじゃないのか?」と問うが、死んだのは子供の精神であり、利己的な大人の精神を獲得しない限り怪物は何度でも蘇るのだ。*1


ネクタイの意味

ニースはほとんどのシーンでスーツにネクタイを締めている。おかげさまでビジュアルが最高によいということを抜きにしても、ネクタイは本作の重要アイテムである。


身分の象徴と自覚

「私はネクタイを締めたことがない」というラナーにニースは「あなたはそんなことが自慢ですか?」と大げさに噛みつき、ラナーと初めて会ったジェイは「第一地区でネクタイを締めていない大人を見たのは初めてだ」とも言っている。鏡の前でフードを羽織ったニースが「ネクタイや肩書で誤魔化しても、お前にはフードがお似合いだ」と呟いていることからもわかるように、ネクタイには上流階級の証や自覚といった意味があるのだ。

逆に、ラナーがネクタイをしないことの裏には彼が元フーディである過去が見え隠れする。ニースとしては「アンタの正体がバレないように僕が犠牲を払ったのに、それを自慢げに話すんじゃねぇよ」くらいの思いは当然あるだろう。同時に、そんな父親を持つ自分も第九地区にルーツを持つ異分子であり、その秘密を隠すために親友を殺したという爆弾まで抱えている。ニースはネクタイを締めることで第一地区に生きる者の体裁を整え、隠れ蓑にしているともいえるだろう。


ネクタイと親子関係

ウィンザーノット』の歌詞でも触れられているが、ニースが幼い頃、ネクタイの結び方をラナーに尋ねたが「くだらない」と切り捨てられて教えてもらえなかったというエピソードがある。原作によれば、ラナーはそもそもネクタイの結び方がわからなかったために教えたくても教えてあげられなかったのだそうだ。だが本当のことを言うのは息子に面目が立たないので、厳しい言葉で誤魔化したらしい。言葉にしろ。

原作のニースは、ラナーが第九地区の出身であることを知ったことで彼がネクタイをしない理由に合点がいったようだ。自力でネクタイの結び方を覚え第一地区の大人の模範であろうとするニースからすれば、ネクタイをしようともしない父には疎ましささえ感じるだろう。一方ラナーにとっては、自力でネクタイを結べるようになった息子の姿は「私にできなかったことを全て叶えた息子」の象徴なのかもしれない。

ニースは自分が父にしてもらえなかったことを取り返すように、息子のダーウィンウィンザーノットの結び方を教える。ネクタイは上流階級としての証と自覚であるという話をしたが、プライムスクールの制服はネクタイではない。つまり、学生はまだ完全な上流階級の大人にはなりきっていない状態なのだ。そんな息子に父がネクタイの結び方を教えるというのは、我が子を立派な大人へと導くことと同義であるが、ニースとダーウィンとっては、第一地区に潜む罪人の擬態方法を継承しているようでもある。そう考えると『ウィンザーノット』が単に微笑ましいシーンには見えなくなってくるだろう。

とはいえ、本人にとってはそんな気は一切なく『ウィンザーノット』は大人になる一歩手前のダーウィンとの愛しい刹那に他ならない。

最初に述べたように、彼は元来非常に純粋で周囲にまっすぐな敬愛の目を向けられる人間であり、それは父になった今の彼の父性の源流でもある。次章では、そんな彼の「愛情」について触れていく。


愛に生かされる男

広くんの役柄が発表された際「教育部長官」「エリート」といったワードと眉間にしわを寄せたビジュアルを見て、出来の悪いを息子をいびる威圧的な父親を想像した。

しかし、劇場で彼の第一声のダーウィン!」という声を聞いた途端、その予想は完全に覆された。私はよく広くん自身や彼の演じる人物のことを「誠実の擬人化」「バフ●リン(半分が優しさでできてる)」と呼ぶ。誠実という概念を擬人化して喋らせたように、温かく、目の前にいる相手にまっすぐに向けられる優しい声。息子を呼ぶこの声だけでわかった。彼は息子を理不尽にいびったりせず、心からの愛情を注ぐ父親だと。

彼は取り返しのつかない罪に苦しむ一面もあるが、自分の息子のことを心から愛し大切に育てている。むしろこの愛情深さこそがニース・ヤングという人物の本質であると考えている。*2 16歳で「生きながらにして死んでいる」状態になったはずの彼を生かしてきたものは彼自身の愛であり、そして今後は、"大人"になったダーウィンの愛にも守られていくのだ。


息子への愛

ニースがここまで生きてきたことにはひとつの大きな目的があった。例の写真をこの世から完全に抹消することである。

原作によれば、ジェイの死後に学校の宿題のためにアーカイブに見学に行った時、ニースは件の写真が国立図書館アーカイブに保存されていることを知り、アーカイブの管理権限を得て写真を削除することを人生の目標に定めたのだそうだ。猛勉強をして、アーカイブを傘下に持つ文教部に就職を果たし(舞台では教育部に設定変更されている)アーカイブの写真フィルムがデータ化されるタイミングで12月革命に関する写真の機密レベルを引き上げた上、遂に写真を削除したのだ。

アーカイブのデータ化が始まったのはわずか5年前なので、写真の削除に成功したのはそれ以降ということになる。そして悲願を達成したときのニースには、既に新しい生きる意味が生まれていた。それがダーウィンだったのだろう。*3

原作では、自分がジェイを殺害したことをジョーイに口走ってしまったニースは、何もかも投げ出そうとして辞表を出し、妻には子供を堕ろそうとまで言ったという。ニースの妻や結婚の経緯についてはあまり触れられていないが、子供を授かってもなお、彼にとっては己の罪が人生のすべてであったのだろう。現に、生まれたばかりのダーウィンをジェイの追悼式に連れてきたニースは、我が子を抱いて親友の祭壇の前に立ち「ダーウィンは私が犯した罪を贖罪するために捧げる生贄の羊」だと悟ったという。いずれ優秀な子供をもうけたかもしれない親友に代わり、穢れの無い子供を育てることが贖罪になるとでも思ったのかもしれない。

しかし、ミュージカルを見ても原作を読んでも、ニースが常に贖罪としてダーウィンに接しているとは思えない。ニースのダーウィンに対する愛は本物だ。ダーウィンを育てるうちに我が子を守り育てようとする父性も育ち、当初の人生の目的を果たしても尚教育部長官として、父として、彼は生き続けている。

人間は、深い悲しみを抱えていても常に泣きながら生きているわけではなく、時には笑ったり喜んだりしながら生きているものだ。ニースも一面では死を願ってはいるものの、今ではそれだけが彼のすべてではなく、父としての一面が彼に死を選ばせずにいるのだろう。


息子からの愛

他作品だが、『Nのために』という作品に「愛とは罪の共有である」という言葉がある。この作品では、ある事件の現場に居合わせた人々が各々の最愛の人ためにその人が犯した罪を隠そうとしていた。ヤング家もこれと同じで、ラナーの秘密を守るためにニースが罪を犯し、ニースの罪を隠すためにダーウィンまでもが手を汚した。そして父は、自分とヤング家のために我が子が親友を殺めたことを今はまだ知らない。

父の罪を知ったダーウィンは、当初父を自首させようとしていた。しかしそれは、父への愛ゆえではなく父の罪を告発することで自らの純潔を証明する傲慢な行為であり、父を愛するのであれば彼の罪を飲み込んで「赦す」べきなのだと悟る。告発を思いとどまったダーウィンは、自分の人生は父の犯した罪の上に成り立っていることを受け入れ「父を愛さなければ」と思うようになる。そして、ニースが親友を殺害したという秘密を守るために、自分も同じく大切な親友を同じ手口で手にかけた。ダーウィンにとってレオ殺害は「父の罪を共有する」ことと等しかったはずだ。

レオの葬列で涙するダーウィンと、彼を抱きしめるニースとラナー。抱き合う親子の間には大きな認識の差がある。ラナーとニースを抱きしめるダーウィンはもはや父と祖父に守られる子供ではなく、ヤング家の秘密、罪、そして愛を背負う覚悟を感じさせた。ダーウィンにより罪の告発を免れたニースは、ダーウィンの沈黙という「愛」に知らず知らずのうちに守られて、これからも人生を送っていくのだろう。


ニース・ヤングはどこまでいっても根はいい子だった。純粋すぎるが故に取り返しのつかない罪を犯し罪悪感に苦しむ子供の名前が「ニース(Nice)」だなんて、残酷すぎる。*4
愛し愛され、苦しみながら生き続けろ、ニース・ヤング。


広くんのお芝居について

さて、ここからIQが3になります。

もうちょ~~~~~~当たり役だったよねニース・ヤング!!

元々スーツは似合うし、今回は特に、理想の父親としての大きな背中をビジュアル的にも表現するためにかなり身体を作っていたらしい。上等なスーツに厚い身体と広い背中がジャストフィットしていて、第一地区で一番スーツとネクタイが似合う大人だった。間違いない。隠れ蓑どころの騒ぎではない。第九地区がルーツだなんてバレようがないよ完璧だよ。

あと、左の前髪を1,2束残すヘアスタイルもめちゃくちゃ好き。苦しみながらうつむくと、前髪が顔にかかって影を作るようになっている。私もくせ毛だから、湿気の多い時期は髪の毛が言うことを聞かないという広くんの悩みはよくわかるけど、舞台のうえで生きる広くんにかかればくせ毛も言うことを聞く。

ビジュアルの良さをひと通り叫んだので、ここからは主にお芝居の面で好きだったポイントを書き残していく。役者としても一人の人間としても、広くんだからこそできた表現がたくさん詰まっているのがニース・ヤングだった。


年齢の演じ分け、声の深さと太さ

お久しぶりです。
矢崎広の年齢演じ分け大好き芸人です。

こんなに幅広い年齢を演じるのを見るのはひさしぶりだったし、今回特徴的だったのは、時間経過とともにだんだん大人になるのではなく、回想シーンや心理的に子供に戻ったりするシーンがあって、スイッチをパチンパチンと切り替えるように演じ分けていたこと。事前情報で16歳時代も演じるとは聞いていたがあんなに可愛いとは思わなくて、初見2幕ド頭で目ん玉飛び出た。

特に演じ分けが光ったのは、ラナーと二人きりで話すクリスマスのシーン。ジェイの死に縛られていることを、ニースの犯した罪を露とも知らないラナーに責められたニースは「僕が死ねばよかったんだ」と呟く。一人称は普段の「私」ではなく16歳の頃の「僕」に戻り、所在なさげにか細く上ずった声で何度も同じセリフを繰り返す。あんなに広く見えた背中は、嗚咽しながら地面にうずくまると酷く頼りなく小さく見えた。年齢演じ分け大好き芸人には堪らなかったし、あれを見て矢崎広、やばくね…?」と思った人絶対いるでしょ?いるよね?

広くんの年齢の演じ分けのベースはだと思う。それも声色というより、声の深さと太さ。

16歳のニースの声は、喉の比較的浅いところから細い息で出しているような音で、あどけなく可愛らしく聞こえる。ラジオで話している時やふざけている時の広くんの声はわりとこっち寄り。逆に46歳の時は、喉を広く開けて深いところから温かい息を吐くような太い音だ。オフィシャルな場で落ち着いてコメントしたり、イケボを出そうとするときの広くんのトーンはこっち。アルトサックスとバリトンサックスくらい息の太さが変わっていると思う(伝われ)

他にも口調や話すスピードなどいろいろな方法で年齢を演出しているんだろうとは思うが、私がいつも感じるのはこうした音の深さ・太さの違いだ。単に音の高低ではなく息の使い方を変えることで、同じ人間が長い時間を過ごし様々な経験を経たことで成長してきたんだということを感じさせる。

私がよく「広くんの"喉"が好き」と言うのも、広くんのこうした表現方法が好きだからだ。昔ラジオに「喉が好き」というメールを送った際は「声じゃなくて喉なの?w」と本人に笑われたが、声そのものだけではなくそれを操る喉から好きなので「喉が好き」以外に表現のしようがない。

あ~~~~~~久しぶりに声優仕事来ないかな~~~~~~~~~~~~

ちなみに、年齢演じ分け大好き芸人のベストセレクションは、ミュージカル『JERSEY BOYS』朗読劇『ラヴ・レターズ』。どちらも一人の人間の40~50年分の人生を演じており、10代の可愛らしいぼっちゃん時代から、スーツの似合うナイスガイを経て、落ち着きと貫禄のあるイケオジへの進化を遂げる。
どちらも円盤化していないし再演も微妙なところなのが残念。他にも幅広い年代を演じる作品はあったと思うが、現地で見て「これはやべえ」と思ったのはこの2本かな。


お芝居とシームレスな歌

韓国ミュージカルは思いを爆発させて叫ぶように歌いがちだそう。だとしたら韓国ミュージカルめちゃくちゃ合ってると思うよ!

ダーウィン・ヤング』は楽曲も難しくテクニック面でかなりレベルの高いことをしていたはずだが、それでもお芝居がおろそかになることなんて一切なく、秘めた気持ちをさらけ出して歌うという表現が、役のフィルターを通して感情を露出できる広くんのお芝居にベストマッチしていたと思う。

どの曲もよかったが、忘れられないフレーズがこれ。

大切な友達を殺して
涙流した 夜が明けるまで
僕だけじゃない


『青い目の目撃者』

「大切な友達」「殺して」「涙流した」よ?ワンフレーズごとに襲い来るカタストロフィ。
表情は苦しげでありつつも、張りのある声で正確に音を当ててくるので、無駄な心配やノイズを感じることなく歌詞と心情を受け取ることができて、全要素が胸をえぐってきた。単に綺麗なだけの声ではなく、歌に苦悩が滲み出ていた。お芝居の中で歌うってこういうことだよな…

私はミュヲタではないし技術的なことは正直わからないが、歌唱技術よりもお芝居を重視しているので、こうした芝居っ気の強い歌を聴かせる役者がやはり好きだ。情けない男を演じる矢崎広は天下一品なので、劇中9分9厘苦しんでいるニース・ヤングはまじのフルコースだった。一生悩み続けてほしい。


父親を演じる

広くんのお父様の話は本人もよくしているし、このブログでも一回書いた。
tea-miki.hatenablog.com

↓これは一生忘れられないモマのカテコでのご挨拶。


モマ初演→再演につづく本作で、父親という存在をフィクションで表現することに関してまた一段階上のものを見せてもらった気がした。父親を演じるにあたって意識したこととして、理想の父親像を自分の父親に重ねたそうだ。お父様とお母様から受け取ったバトンをしっかり握って、自分自身も年齢を重ね、今度は渡す側を演じる。ああ見えてプライベートは結構謎な人だが、こうして出演作を追うことで、広くん自身の人生を見せていただいている気がする。


次回出演作のお知らせ

ここで矢崎広さんのおたくからお知らせです(何故)
広くんの次回出演作は朗読劇。『シャーロック・ホームズ』が原作のリーディングシアター『四つの署名』。
toei-stage.jp

沼の淵に立って「朗読劇か~…ミュージカルや演劇じゃないなら別にいいか」と思っているそこのあなた。

あまあまのあまぴろかよ。

矢崎広の朗読劇は最高だぞ。

広くんの朗読劇は単なる朗読には収まらない。座って台本を広げて「読む」のをイメージしているなら大きな間違いだ。広くんの朗読劇は、椅子に座っても台本を手に持っていても、そこに完璧に役として存在し「生きている」のを見せてくれる。むしろ、身体表現を制限されている分演技力で見せてくれるため、繊細で重厚なお芝居を見ることができる。

前回のリーディングシアターを見るに、今回もホームズとワトソンの会話をベースに物語が展開するのだろう。広くんは複数の公演に別のペアで出演するので、どこかで一度はホームズ役をやると思う。探偵役は無条件で優勝である。

広くんは年に1本ペースで毎年ほぼ必ず朗読劇に出演する。精力的に出ている方だと思うし、この事実だけでも広くんの朗読劇への力の入れようは伝わるだろう。ニース・ヤングを見て彼のお芝居に興味が出たという方がいれば、朗読劇は絶対に観ておくことをお勧めする。




久しぶりに広くんの出演作について感想ブログを書いた。普段はなかなか重い腰が上がらないが、「この興奮が冷めないうちにタッパーに入れて冷凍保存して、見返すたびにいつでも思い出せるようにしなければ!」という衝動に駆られるほど素晴らしい作品・役だった。観劇して、原作読んで、考えを深めて、また観劇して答え合わせして、新たに広くんのお芝居に気付かされて…とても充実した1ヶ月だった。

反響も大きく制作側も手ごたえを感じているというような話をちらほら聞くので、絶対に再演してくれると信じてるよ!

*1:前回のブログで述べたように、階級制度による格差を黙認したり下位地区の人々を度外視しようとする点ではニースも大人の精神と価値観を持っているので、彼自身が大人になれていないというより、ことジェイの死に関する事柄について精神の進化が縛られているのだろう。

*2:未だ罪悪感に苦しんでいるのも、ジェイとの絆を捨てきれない彼の情の厚さからではないだろうか。

*3:写真を削除し秘密を守ろうとしたことは父・ラナーへの愛からではないかとも思いたいが、それは父への愛というより、父の秘密が明るみになることで自分が社会的に没落することへの対策の意義が大きく、また原作ではニースはラナーのことを明確に「憎んでいる」という記述もあるので、「父への愛のためである」と一概に片付けられない。

*4:ニースの名前は、両親の新婚旅行先の地名から取られたらしい。