STARMANN

いつか光を超えて、わたしを空へ連れ出して

停滞から前進へ~映画『いなくなれ、群青』

目次

  1. 作品との出会い
  2. 七草と真辺
    ー七草のひとつめの『理想』~信仰
    ー七草のふたつめの『理想』~幸福
  3. 佐々岡
    ー佐々岡が捨てたもの
    ー自分の物語から逃げない『主人公』に
  4. 停滞から前進へ~この物語はどうしようもなく、彼女と出会ったときからはじまる

作品との出会い

2014年より刊行され多くのファンを持つ「階段島シリーズ」。今年その実写映画化が発表され、映画公開に先駆け、私も初めて小説を手に取った。小説の世界観の奥深さや主人公の七草と真辺の関係性の美しさに心惹かれ、公開までに全6巻を読み切り、期待で胸をいっぱいにして映画の公開を待った。

映画化された『いなくなれ、群青』は、小説に映画オリジナルのアレンジが加えられ、キャストの繊細な表現により視覚的にも行間が増えている。小説を読了しすべての種を知っていても、まだ独自の感想を持ち考察する余地を与えてくれる作品で、観るたびに刺さるポイントが変わり深く考察することができた。

今回は、私が魅了された七草と真辺の関係性と、佐々岡の捨てたものに関して、主に映画を観て考えたことを整理し、原作を参考にして綴っていきたい*1

七草と真辺

映画に関して、七草と真辺の物語を「ラブストーリー」と称する意見をよく目にするが、全面的に同意はできない。原作にも通ずることだが、これは恋愛のような狭義の「ラブストーリー」ではなく、友情や信仰といった広義の「ラブストーリー」であってほしいと思い、私は変化しつつある二人の関係を解釈している。

本作のラストシーンでは、七草が真辺の手を握って幕となる。撮影当時このシーンには二人の恋愛関係を思わせる台詞があったことが、舞台挨拶で明かされた。カットしないでほしかったという声もあるようだが、私は無くても十分だと思っている。

この壮大な物語の主人公二人の関係は、恋愛という具体的で排他的な言葉で片づけられてほしくはない。そこに恋が芽生えているとしても、最後の最後にこの物語に「恋」という「名前」を付けてしまえば、ここまでの広い行間にちりばめられてきた七草の信仰や真辺の信頼、友情といった、混沌とした唯一無二の関係性が、すべて排除されてしまうように思う。

ここでは七草の『理想』を整理し、この二人の関係性とその変化について考察していく。

七草のひとつめの『理想』―信仰

七草にとっての理想は、真辺という人間が欠けることなく(正しいことの正しさを信じつづけ)この世に存在すること。もしくは、そう信じつづけること。遠く離れたピストルスターの輝きのように、それが自分の目に物理的に映らなくても構わない*2 。真辺から離れてさえしまえば、たとえ真辺が欠けることがあったとしても七草がその姿を見ることはなく、「完全な真辺」という偶像を信仰し続けられる。したがって、極端なことを言えば、むしろ真辺から離れることが七草の理想を永遠のものとするのだ。 仮にこれを七草の『頭で考える理想』とする。
この理想を叶えるために、七草は魔女と交渉して真辺を島の外へ帰そうとする。また、2年前の七草が真辺との離別の際に笑ったのも、この『頭で考える理想』が叶うことを無自覚に喜んでいたためである。

真辺を傷つけないため、真辺を信仰しつづけるために、七草は「(正反対の)僕たちは本来一緒に居ちゃいけない」という結論を出した。一方の真辺にとって、その理想主義は七草の悲観主義によって守られる、一蓮托生の関係にある。だから真辺は、七草を追いかけて階段島へやってきた。現実の真辺は理想主義の自分を捨て、七草の『頭で考える理想』通りの完全無欠ではなくなった。

七草のもうひとつの『理想』―幸福

そして、七草の中でも何かが変わり始めている。
これは原作の中で現実の七草が指摘していることだが、七草の中には「真辺のそばに居たい」という、これまでの信仰とは矛盾した感情が芽生えている。信仰的なこれまでの理想と対比して、こちらは『心で願う理想』としよう。

悲観主義者で何もかも失敗を想定する七草が、真辺が現実世界に帰るという『頭で考える理想』をまっすぐに叶えようとできるのは、真辺が階段島を出ることはその「『心が願う理想』の挫折」という悲観であるから。原作で七草は、この矛盾するふたつの理想に現実の七草からの指摘によって気づく。しかし映画ではその描写は無い。真辺が階段島に戻ってきて七草の『頭で考える理想』は破たんし、真辺が理想主義を捨てたのは自分と共にあるためだという確信があるにもかかわらず、彼は「また会えてうれしいよ」とその手を取るのだ。

また原作では、七草の「自分の幸せを簡単に諦められる」という側面もクローズされている。『頭で考える理想』と照らし合わせれば、真辺と一緒に居るという自分の幸せ(=『心で願う理想』)を諦め、真辺を遠ざけようとするのがこれまでの七草だったはず。それが、真辺と共に在るという幸せに自ら手を伸ばした。「現実の七草」は、真辺と共に在る幸せのために悲観主義者である自分を捨てなければならなかったにも関わらず、階段島の七草は悲観主義者であるまま真辺とともに在る道を選んだ。

現実世界で小学生の時に出会い、階段島で再会した二人。別れては出会うたびに、二人の物語は章を変え新しく始まってきた。捨てられた人格が集まる階段島で三度「彼女に出会う」ことで、七草という停滞しているはずの「欠点」が一歩前に踏み出すというラスト。これは二人の新しい関係の始まりの物語なのだ。そこには恋愛感情も含まれているのかもしれないが、そのひとつの感情だけでこれまでの二人の感情が捨象されるのではなく、新しい意味を含んだ新しい関係となるはずで、理想主義と悲観主義の二人は、何も捨てずに自分たちのままでありながら共存できる関係を模索していくのだろう。

佐々岡

原作と映画でもっとも解釈の変わったキャラクターが佐々岡であり、また作中では、佐々岡が無くしたものがもっともわかりやすく「人の成長」を体現しているように思う。

佐々岡が捨てたもの

現実の佐々岡が捨てたものは「『ヒーロー』願望を持った自分」だろうと、原作を読んだ時は思った。しかし広大くんの佐々岡を踏まえて考えると、捨てたのはむしろ「『主人公』になることを諦める自分」 なのかもしれない、と考えが変わっていった。

原作『その白さえ嘘だとしても』の中の七草のモノローグで、「佐々岡は正義の味方にはなれない。彼は諦めることができる。本当の正義の味方は、諦めることを知らない悲劇的な存在だ」というような記述がある。原作を読んで佐々岡を思い描く段階では、彼の変身願望が前面に出ているように思えたが、映画の佐々岡は逆に「諦め」にフォーカスして見えた。平凡な自分ではない別の誰か、ヒーローという別人になろうとするが、所詮自分は脇役だと諦めてしまうあの暗い瞳。

もし佐々岡が、私の第一印象のようにヒーロー願望自体を捨てていたとすれば、現実の佐々岡は何者になることも諦め、平凡な毎日をただ流されるように生きているのかもしれない。
しかし捨てたのが諦める心なら、現実の佐々岡は平凡な人生であっても諦めず、自分の物語の中心に腰を据え、その物語の主人公の人生を歩むことができたのではないだろうか。

自分の物語から逃げない『主人公』に

当初、階段島の佐々岡は、自分を『ヒーロー』にしてくれる物語が現れることを受動的に待っていた。そして現れた物語で『ヒーロー』らしく振る舞えなければ、自分は所詮脇役の村人Aだと諦めてしまう。
しかしそんな村人Aにだって、村人Aを中心とした人生があり、その中において村人Aは、『ヒーロー』らしく振る舞わずとも、自分の人生の『主人公』である。自身の人生の『主人公』の役を降り別人になり変わることはできない。

佐々岡が豊川に「俺だって逃げてるよ、何でもない自分から」と零す。佐々岡がダメだと思っている欠点、それは、つまらない自分から逃げようとする心。つまらない自分から逃げ別人になろうとする、でも「どうせ俺は『ヒーロー』ではなく脇役だ」とどこかで諦めてしまう心。それが佐々岡の捨てたものだろう。

豊川のヴァイオリンの音を「この世界を変えてくれるような音」と呼んだ佐々岡は、まだそんな受動的な心のままなのかもしれない。しかし、「もし君がこの弦で弾いてくれたら、俺も変われる気がする。俺が辞めさせない」という言葉から、彼もまた変わろうとしていることがわかる。流れに身を任せ結末をただ受け入れるのではなく、豊川に働きかけることで自ら物語を動かした彼は、弦をめぐるエピソードにおいて、まぎれもないヒーローだった。

停滞から前進へ~この物語はどうしようもなく、彼女と出会ったときからはじまる

階段島は本来、切り取られた人格が集まる、成長を奪われた人たちの停滞の島であった。前進しなければ傷つくことはない。それが、魔女が島の住人たちを守る方法だった。
だが、映画の中で登場人物たちは成長への一歩を踏み出しつつある。

水谷は「自分は偽善者だ」と嫌いな自分を自覚し、佐々岡は「俺だって逃げてるよ、何でもない自分から。でもそれじゃダメなんだよ」「俺も変われる気がする」と前を向き、七草は、信仰という悲観的理想を押しのけ、自らの幸せのために真辺の手を取る。

そしてこの成長の物語は、「彼女」―真辺由宇との出会いから始まった。

七草は真辺の姿をピストルスターの輝きー強く輝いているにも関わらず、あまりにも遠いため自分には届かない光ーに喩えている。たしかにピストルスターの光は地球からは見えない。それは七草にとっての理想の真辺との距離感だった。

しかしピストルスターの周りでは、その強い光が周囲の星々すべてに届き、闇を照らしているはずだ。それと同じことが、階段島で起こった。
真辺が階段島にやってきて理想を追い求めることで、闇はその強い光に照らされ、隠されていたものが白日の下にさらされる。真辺の言葉が周囲の彼らに突き刺さり、その痛みによってそれぞれが自分の「核」たる欠点に気づく。成長から遠ざけることで魔女から守られていたはずの彼らが、前進し傷つきながらも自己と向き合う。

階段島に住む人々は、現実世界の自分に捨てられた「欠点」そのものであり、彼らが自己と向き合うということは、「欠点」という側面から見た自己のアイデンティティの認識である。自己と向き合い、「欠点」を克服するのではなく、自覚された「欠点」を抱えたまま前に進む可能性を示す。
そうした変化の過程にある「欠点の結晶」であるはずの彼らが魅力的に描かれることで、観客は気づく。自分の「欠点」を「欠点だ」と思っているのは、自分の思い込みなのかもしれない、と。

*1:そもそも私がこの作品を手に取り映画を観るにいたった理由が、信頼する役者である松岡広大くんが佐々岡を演じたためであり、佐々岡を読み解くのに力が入るのは当然のことなので、深読みや贔屓目が入ることはご容赦いただきたい。

*2:これは恋愛より信仰に近いもので、身近なもので言えば『広大くんが私のことを認識していなくても、広大くんが俳優として輝き活躍するのを見ていたい』という感情が一番近い。はいここ笑うとこだよ~