STARMANN

眩しくて 手を振れば 遠く輝いて瞬く星座

罪によって子供は大人になるー『ダーウィン・ヤング 悪の起源』

推しである矢崎広さんの出演をきっかけに観劇したミュージカル『ダーウィン・ヤング 悪の起源』。広くんの出演作はハズレが無く基本的にはどれも当たりだが、今回は大当たりも大当たりだった。

今勢いのある韓国ミュージカルを元に、演出はあの末満さんで、広くんのお芝居も最高(広くんが演じたニース・ヤングに関してはまた別にブログ書くつもり)
解釈の余地のある物語には、観るたびに気づきがあり、観劇して気づいたことを深めて考え、次の観劇で答え合わせをするのがとても楽しかったし、今もまだ考えている。

今回のブログで、私が考えた「ダーウィン・ヤングの悪の起源」と本作における「罪を犯す」ことの意味をまとめておく。

<注意>

  • 既に2023年の全公演が終了しているので気にする人はいないと思うが、めちゃくちゃネタバレしている。これから原作を読む方や、数年後再演が決まりこれから初めて観るという羨ましい人がいれば、ご注意いただきたい。というか再演してくださいお願いします。
  • 触れたメディアは、日本で上演されたミュージカル本編とそのパンフレット原作小説、そして韓国版の原曲の歌詞。ブログ内容には小説と原曲の歌詞から引っ張ってきたものを含んでおり、日本版ミュージカルでは描かれていない背景や描写を踏まえて考察しているので、ミュージカル単体と言うより『ダーウィン・ヤング』という世界観に関する考察になっている。
  • 韓国版の歌詞の訳を引用しているが、翻訳アプリと勉強中の乏しい知識でちまちま訳したものなので、細かい文法の間違いには目を瞑ってほしい。





ダーウィン・ヤング"の"悪の起源」?

初めての観劇後、韓国版のサウンドトラックなどは無いものか調べようと韓国語で検索してみたのが最初だった。
現在勉強中の拙いハングルで「다윈 영(ダーウィン・ヤング)」と検索したところなんとかヒット。韓国版のタイトルは『다윈 영의 악의 기원』。韓国語と日本語は文法的にかなり近いので、タイトルも韓国と日本でほぼ同じなのだが、よく見ると違いがあることに気づいた。

韓国版をそのまま訳すとダーウィン・ヤング"の"悪の起源』となり、日本版タイトルには無い「の」にあたる助詞が入っている。微々たる違いに思えるが、私には見逃せなかった。『ハリーポッター"と"賢者の石』とか『チャーリー"と"チョコレート工場』とか『矢崎広"の"よるステ!』とはワケが違う。

ダーウィン・ヤング」と「悪の起源」を独立させて見れば、一般的な「人間の悪の起源」と捉えることもできるが、「ダーウィン・ヤングの悪の起源」であれば、ダーウィン・ヤングという一個人の人生における「悪の起源」に関する物語ということになる。


これに気づいてまず思い出したのが、本編ラストシーン。

父の過去の罪を隠すため親友のレオを殺害したダーウィン。最後はレオの墓の前に立ち、不気味な笑みを浮かべていた。これを見て脳裏に浮かんだ言葉はズバリ「地獄開幕」ヤング家の罪の歴史を隠すため数々の罪を重ねる巨悪と化すダーウィンの未来が見えたような気がしたのだった。だとすれば、ラストシーンのこの瞬間こそが「悪の起源」なのでは…?


タイトルひとつ取っても、韓国版と比較することでこれだけ考えが深まる。それなら、韓国版の歌詞と比較すれば、日本語訳詞だけでは見えなかった角度からの解釈を得られるのではないか。その先にダーウィン・ヤングの悪の起源」とは何を指すのかの答えがあるのではないか。

そんな好奇心から、韓国語の勉強がてら辞書アプリ片手に、ネットに転がっていた韓国版の歌詞を読み解くことを始めた(韓国語の勉強としてもめちゃくちゃ有益だった)


3曲の歌詞から見えてきた、罪を犯すことの意味

ここからは韓国版の歌詞と原作の描写も踏まえて、「罪を犯す」ということが人間にもたらす作用についてどのように示唆されているか読み解いていく。韓国版の歌詞と日本語訳に特に違いが見られた3曲を取り上げて進めていく。

『プライムスクール[1]』罪を犯すことで人間は完成される

美しい旋律と、情景が浮かぶような歌詞で一瞬にして観客を引き込むM1、その名もズバリ『プライムスクール』。どうしてこの曲のタイトルが『プライムスクール』なのか最初は疑問だったが、この歌詞の一部はもともと原作において、プライムスクールのドキュメンタリー番組のためにバズ・マーシャルが書き綴った文章だった。

プライムスクールのみならず、ダーウィン・ヤング』という作品の世界観とテーマがこの一曲に詰まっている。よって情景は美しく聞こえるが、実はかなり救いようのないことを言っている。

注目したのは2番のサビにあたる部分。まずは日本語訳。

誰も教えてくれない
あの彼方の空の濁りを
濡れそぼつ草の朽ちてゆくのを
鳥の雛たちが地に落ちるのを


次に韓国語版の直訳。こちらの方がより核心を突いた表現になっている。

誰も言ってくれなかった
黒い空の下で歴史は始まり
雨に濡れた草原の悪臭の中で育ち
小鳥は墜落するときに完成するということを


最後に大サビ。これは日韓で大きな違いは無いが、せっかくなので韓国語版を。

誰も覚えていられない
あの空が今どれほど真っ青か
草の香りがどれほど息が詰まるように濃いのか
小鳥がこの瞬間どうやって飛んだのか

もうこれが『ダーウィン・ヤング 悪の起源』における「罪」の位置づけそのものズバリである。

人間の築いてきた歴史は常に暗いもので、人間は腐った世界で育ち、堕落して初めて一人前に成長する。空の青さも、息が詰まるほど濃い緑の香りも、青い空を目指す小鳥の頃の羽ばたきも、いずれみんな忘れてしまう。

人は罪を犯すことで人間として完成されるということなのだ。地獄市立最悪高等学校校歌か。


『青い目の目撃者』少年時代の終わり

物語の終盤、レオを殺害したダーウィンと、ジェイを殺害したニース、そして、第9地区から逃げ出し第1地区のヤング家の扉を叩いたラナー、60年の時を越えて三世代の心情と歌声が交わる大曲である。

以下に引用するのは、三人の声が重なりはじめるフレーズのダーウィンとニースのパートの韓国語詞。

僕の過去は終わった
もう二度と思い出さないだろう
記憶は消える
弁明も後悔もしないだろう


もう一か所、今度は一番最後のフレーズ。

夜明けが来れば
僕は僕の世界と決別する
僕は大人になる
許されない罪を犯したその子供は
いま大人になる


「僕は僕の世界と決別する」というフレーズは日本語訳詞にもほぼそのまま活かされており、このあとの楽曲にも出てくる重要なフレーズである。

ここでいう「僕の世界」とは、ダーウィンとニースが殺人という罪を犯すまでの16年間の記憶や思い出と取れる*1。ニースが16歳までの自分を捨ててしまったように、ダーウィンもこれまでの16年間を忘れ去ってしまうのだろう。父と鏡の前で並んでネクタイを結んだあの日のことも…


『誰も覚えていない』この世から消え失せた眩しい少年

本編のラストに歌われるフィナーレの曲。シーンとしてはレオの葬列だが、歌詞をよく聴くと不自然な点がある。

日本語訳詞は部分部分しか覚えられなかったので、韓国語版の訳を以下に引用する。曲自体は『プライムスクール[1]』のリプライズになっているのでサビの歌詞は共通しており、一か所を除いて、内容は日本語訳詞とほぼ同じだったと思う。

まずは歌い出しからサビ前まで。

あんなにキラキラしていた一人の少年は
何の理由もなく
急に地上から消え失せた
世の中に変わったことは無いのに


棺の上に積もっていく花びらは
誰のために涙ぐむのか
墓地を訪れる人々は
いま誰のために心から祈っているのか


シーンとしてはレオの葬列であることに疑いようがないにも関わらず、「誰のための葬列なのか」が執拗に問いかけられる。「この世から消え失せた眩しい少年」とは誰なのか。

その答えが、ダーウィンのソロになるブリッジで明らかになる。

赦されない罪を犯しながら
時間の関門を通り過ぎる
大人になる
僕は僕の世界と決別する
そうして子供は死ぬ


死んだのはレオだけではなく、レオを殺害したことで「僕の世界」と決別したダーウィンの子供の精神だった。大人になるということは、子供の精神・世界を失うということなのである。

このブリッジの部分、韓国語版と日本語版では明らかに違う箇所がある。
韓国版の直訳作業を終え「ここだけは絶対に現地で聴いて憶えて帰るぞ」と意気込んで全身を耳にする勢いで聴き取った結果、客席で鳥肌が立ちまくった日本語訳詞、いや、末満版がこちら

僕は許されない罪を犯し
このまま生きるのか
僕は今僕の世界に別れを告げて
明日を生きる


韓国版では「死ぬ」と歌っているところが、末満版では真逆の「生きる」になっているのだ。これには一体どういう意味があるんだ…あえて真逆の訳をあてがったことに理由はあるのか…

そのあたりも含めて、次の章では「罪を犯すこと」と「大人になること」の関係についての考察を深めていく。



罪が子供を大人にするまで

ここまで長々と「罪を犯すことで人は大人になる」と書いてきたが、私は「罪を犯すこと」と「大人になること」は単純な順接ではないと考えている。その二つが単純に繋がるのであれば、ニースのジレンマに説明がつかないからだ。

ニースは16歳の時、自分の父が12月革命に参加した元反乱分子であるということをジェイに暴かれ、父の秘密を守るためにジェイを殺害した。決定的な罪を犯しているにもかかわらず、ことジェイの殺害について、彼の時間は16歳で止まったまま過去にとらわれている。

『地下室の怪物』の中にはこんなフレーズがある(韓国語版)

大人になったらこの怪物は死ぬと思っていたのに
その時間の中に閉じ込められている
僕はこの瞬間も16歳
大人になれない


ニースの台詞にも「僕の人生は16歳で終わってしまった」とあり、パンフレットのインタビューでは広くんもニースのことを「16歳で時間が止まっている人間」だと言っている。現に彼が演じたニースは、46歳になった今も、ジェイを殺した日のことを思い出すと心は16歳の頃に戻ってしまう(この演じ分けが最ッ高だという話をしたいところだけれどそれはまた後日)

罪を犯すことがそのまま大人になることに直結しなかった例がニースだ。

それでは、何が人を大人にするのか。


第二の精神

最初に注目したのは、いざ親友を手にかけんとする際のニースとダーウィンの様子だ。

ミュージカルでは、レオとダーウィン第9地区へ向かう列車の中でジェイ殺害の日のカセットの録音を聴いたことから、ニースがジェイを殺害するシーンの回想と、今まさにダーウィンがレオを殺害しようとするシーンが交錯する。

鬼気迫るシーンで、手に汗を握るほど夢中になって見ていたので日本語訳詞は全く憶えていないが、韓国版では、まるで天使と悪魔がダーウィンの両の耳元で囁くように別の人格が交互に畳みかけてくる。

ダーウィン、跪いて許しを乞え
レオの前に跪いて哀願しろ
赦してほしいと、僕と父を赦してほしいと
レオは赦してくれるよ
レオは君の友達じゃん
人間が人間に赦されない罪は無いって言ったじゃん
赦しを乞え


このトンネルの中が最後のチャンスだよ
誰もいないじゃん


助けてほしいと、赦してほしいと、跪け


トンネルの中が最後のチャンスだよ


赦しを乞え


ダーウィン


ダーウィン


途中から冷静に状況を見て完全犯罪を目論む別人格が出てくるのめちゃくちゃ怖い。


更にこの曲の直前、赤いフードをまとって親友に迫っていくニースとダーウィンも様子がおかしかった。父の罪を知りそれが親友にもばれて憔悴していたはずが、この瞬間だけ二人ともまるで別人のように落ち着いた口調になっていたのだ。

特にダーウィンは、レオに父の罪を見逃してほしいと頼んだが断られるという絶望的状況にもかかわらず、なんなら微笑を浮かべながら「僕ね、弁護士になるのが夢なんだ」と突然語り始める。まるで、これから起こることによって僕の輝かしい未来が陰る可能性は一切無いと言わんばかりに。しまいには「レオ、わかったよ。説明はいらない」である。何もわかってねーよ説明しろ。


そして、赤いフードの少年二人とそれぞれの親友二人を、赤い紐が絡め合う。その間のニースの表情よ。30年後も自分の犯した罪と親友の亡霊に怯えつづける人間になるとは思えないほど、落ち着いた迷いのない感情0の顔でジェイを追い詰めていた。おまえは誰だ…


ちなみに原作のダーウィンは、プライムスクールドキュメンタリーを見たことをきっかけに新たな考え(人格?)が芽生えている様子があり、以降頭で考えていることと行動がところどころで一致しないという描写も見られる。レオに父の罪がばれたときも、頭では赦しを乞おうと考えているが、身体はまったく別の行動を取り…

このように、罪を犯さんとする時、彼らの精神は二つに分裂し、それまでとは別の人格が生まれていると考えられる。分裂して生まれたのは罪人の人格で、これによって元の人格と倫理観に蓋をされ、操られるように彼らは親友を殺してしまったのではないだろうか。


罪悪感と倫理観

超重要ワード「僕の世界」。先ほどこれは16歳までの記憶と思い出であると書いたが、本当にそれだけだろうか。

原作では、ダーウィン視点で「罪悪感」という言葉が出てくる。
レオは、自分たちの利益だけを守って暮らし下位地区の状況に関して無知・無視することは上位地区の住人の原罪であると主張し、それを聞いたダーウィンは、ルミに連れられて第9地区を訪れたときのことを思い出す。
12月革命から60年、第9地区は生きる目的もない老人だけがかろうじて残る廃墟と化していた。第1地区とはまったくの別世界を見て、そこを「二度と訪れることのない別世界」だと認識した際にわずかに罪悪感を覚えたという。

階級社会では皆にそれぞれ役割があると言うニースに、ダーウィンは「第9地区の人々の役割は何?12月革命で彼らはすべてを失った」と問いかける。これ対してニースは「第9地区は別だ。彼らは何も失っていない。最初から何も持っていなかったんだ」と答える。まさにレオが言うように下位地区を度外視した発言だ。ジェイの死に関しては16歳で時が止まっているニースも、社会の仕組みに関しては第1地区の大人としての考えを持っており、またそのように認識することに何の罪悪感も感じていない様子だった。


ここに大人と子供の違いがあるのではないかと私が考えた。つまり「罪悪感」の有無である。ダーウィンは、下位地区を無視して自分たちだけが豊かな暮らしをしている現状に罪悪感を覚えている。いわば平等で純潔な倫理観を持っているといえる。

しかし、ニースのように社会の仕組みを作る側にまわり、家族と自分は豊かな生活ができる現状に満足していたら、それをさしおいてどれほど罪悪感を感じるだろうか。自分の利益への満足と他者への罪悪感が天秤に載せられた時、利益の大きさを知れば知るほど罪悪感の比重は軽くなりはしないだろうか。先述した第二の精神とは、この利己的な精神の延長にあるものだろう。


純潔な倫理観で自分の罪を認め罪悪感を覚えるか、自分の利益を重視し罪悪感を忘れるか。それが子供と大人の違いであり、子供の頃に持つ純潔な倫理観も「僕の世界」に含まれていると考えられる。


大人への進化「僕の世界に別れを告げる」

ニースとダーウィンは、父と自分の生活を守るために親友を手にかけた。街をひとり彷徨い、ライン川を見下ろし、または暗い夜空を見上げながら流した涙は、罪悪感からくるものだろう。ニースはそれからずっと、16歳までの純潔な倫理観を捨てきれず罪悪感に苛まれつづけている。

では、ダーウィンはどうか。
フィナーレの『誰も覚えていない』の中で、ダーウィンの天秤は大きく動いたのだと私は考えている。


レオとジェイが歌っているパート。これは死者の声で、ダーウィンにはレオの声が聞こえていて恐らく姿も見えており、レオの方を見ながら耳をふさぎ苦しむ姿が見て取れる。その姿は、ジェイの幻影に苦しむニースそっくりで、ダーウィンも父のように一生レオの幻影を見続けるのかと思われた。

しかし、曲が終わり本編が終幕する瞬間スポットライトに照らされたダーウィンは、先ほどまでの怯えた様子は一切なく、不気味な笑顔を浮かべているのであった。

この間に彼にいったい何があったのか。ブリッジの日本語訳詞をもう一度見てみよう。

僕は許されない罪を犯し
このまま生きるのか
僕は今僕の世界に別れを告げて
明日を生きる


ダーウィン「僕の世界に別れを告げて明日を生きる」と歌ったまさにその瞬間に、罪に苦しむ純潔な子供の世界を脱却し、自己の利益のために犯した罪を隠し通す罪人として生きていく決意をしていたとすれば、最後のあの表情は、この先も仮面を被って生き続けるという決意と自信の顔なのではないだろうか。利己的な精神が分裂しジレンマを起こしていたダーウィンの精神のうち、純潔な子供の精神はこの時点で死に、利己的精神=大人の精神が淘汰していったのだ。
末満版が「死ぬ」をわざわざ「生きる」と訳したのも、ダーウィンのこの「進化」の瞬間のためだったと考えれば納得がいく。

友達の父であっても罪人は見逃せないと言ったレオは、その純潔な精神を持ったまま肉体ごと死を遂げ、鳥籠から青空へ羽ばたくことなく消えていった。一方、自らも手を汚し純潔な倫理観を捨て、家族と自分のために罪人として生きる決意をしたダーウィンは、子供の精神だけを殺し、利己的な精神を抱えた大人として濁った空の下を歩きはじめるのだった。


罪が子供を大人にするまでの過程をまとめると

  1. 自己の利益に関わる罪を犯す、または直面する
  2. 利己的な精神の覚醒
  3. 子供時代の純潔な倫理観からの脱却、罪悪感の消失
  4. 大人への進化

となる。

「大人になる」「生きていく」ということは、罪を犯し己の倫理観をアップデートしていくことで、純潔な倫理は汚れた精神に淘汰されていくのだ。



ダーウィン・ヤングの悪の起源」「罪」とは

ここまで考察してきたように、『ダーウィン・ヤング 悪の起源』はダーウィン・ヤング個人の人生における諸悪の始まりのエピソードであると私は考えている。しかし、答えがこれひとつだとも思わない。

ダーウィンの犯した罪は、父ニースの罪を闇に葬るためのものであり、更にそのニースの罪も、暴動を率いたラナーの過去を隠すためのものであった。つまるところ、ダーウィン、ニース、ラナーの罪はすべて繋がっていて、家族の罪を起源として自らも罪を犯し、また次の罪の起源を創出する、悪の起源の螺旋構造になっているのだ。*2
そういえばDNAも螺旋構造だったね、ゴスリング。*3

悪の起源の螺旋構造(最悪)

『モマの火星探検記』も素晴らしい作品なので、広くんが気になった方には是非見てほしい。
全部繋がってるから。


加えて、本作で問われている「罪」とは、必ずしも殺人のような決定的なものだけには限られないと私は考えている。

罪悪感という話にあったように、「社会がどんな問題を抱えようが、世界のどこでどんな問題が起きようが、自分の生活範囲が豊かで平和であれば関係ない」という態度や、現代人の無意識・不認識・無関心は、階級社会における格差を是とし下位地区の人々を度外視しようとする第1地区の大人と変わりない。我々も知らず知らずのうちに自分の世界と決別し、利己的な精神を持つ大人になってしまっているのだ。せめて関心を持とう。そして選挙に行こう。


恐ろしい話でありながら、どこか身につまされる思いがする作品だった。

とはいえ、救いようの無い内容なのに何をこんなに楽しんでいたのかといえば、考えれば考えるほど点と点が繋がっていきひとつの観念が描き出されていく感覚があったから。ミュージカルにも小説にも歌詞にもヒントがたくさん散りばめられていて、何かに気づくたびに作品の仕掛けの緻密さに感心した。

原作はかなりのボリュームがあり、今回触れたのは数ある作品テーマのうちの一部に過ぎない。別のテーマに沿って読めばまた違った考えが生まれる余地があるので、まだまだ考え続けていきたい。

そしていつか必ず再演して、答え合わせをさせてくれ〜〜〜〜!!



次回、
『ニース=矢崎広の好きなところ全部乗せ=ヤング』
『言葉にしてよ、父さん』
『友との絆』

ぜってー見てくれよな!

*1:ラナーだけはむしろ逆行している。
第9地区で生き延びるために大人のように振舞い虚勢を張って生きてきて、12月革命では多くの人を傷つけ大隊長も殺害してしまったが、ヤング夫妻に引き取られ大切に育てられたことで、虚勢を張り罪を犯してきた「私の世界」から脱却し、両親に愛される無邪気な子供へ生まれ変わった。
ニースとダーウィンは明るい少年時代に別れを告げて暗い世界に足を踏み入れてしまった絶望を声を張り上げて歌ってるのに、ラナーだけは、罪人の世界を忘れ明るい未来への扉に手を掛けている。いやいや事の発端はお前なのにその御本人が「忘れるさ~ケンチャナ~」じゃねぇよ、ひとりでハクナマタタすな。

*2:皮肉なことに、ラナーの過去がヤング家のパンドラの匣となった原因には、彼を引き取り実の子供のように大切に育てたヤング夫妻の良心がある。

*3:『PHOTOGRAPH 51(フォトグラフ51)』特設ページ 梅田芸術劇場