STARMANN

眩しくて 手を振れば 遠く輝いて瞬く星座

好きだってことを忘れるくらい、いつも好き

私事ではございますが、2017年1月19日で、やらくんを好きになって10年になりました。

単純に担当歴で言えば、個人的には過去最長になります。
やらくんの芸能生活からすれば10年なんて半分にも届きません。それでも、わたしにとっては既に人生の4割以上。やらくん一筋というわけでもありませんし、10年間ずっと今のように推し活してきたわけでもありません。

ただ、その時々で思ったこと、今思うこと、変わったこと、変わらないこと、今だから話せることを話しておこうと思います。




始まりは2008年のEndless SHOCKでした。
生粋のキンキっ子なので屋良っちのことは以前から知っていたけれど、メインで踊るのを初めてしっかり見て、こんなに踊れてかっこいい人だったんだ…とようやく認識しました。
2008年1月19日 Endless SHOCK 13時公演
席は中列で見づらいしオペラグラスも忘れたし、コンディションは最悪でしたが、そんな環境でもわかる、目を引くライバルでした。


当時わたしはまだ中学生で、自分でお金を出して舞台やコンサートに行けるわけもなく、母のおまけで年に1,2回、SHOCKやキンキコン(とかつんコン)に連れて行ってもらうのがやっとでした。あとは雑誌とテレビ。

この頃やらくんはメディア露出も比較的あって、少プレのMAコーナーや、少クラにも舞闘冠やソロで出演していたので、屋良担なのに茶の間推し活が成立していました。


降りる前は(降りても好きでしたが)かつんを中心に応援していたので、屋良担めちゃくちゃ楽しかった。だってこの頃のかつんって、キプフェとかワンドロとかLIPSとか……



全っ然まともに踊らねえんだわ!!



いやその気だるさ、ワルさが彼らの良さでわたしもそこが好きだったんだけど!!

汗かいてガツガツ踊って、カメラに向かって微笑んで笑いジワ……キンキとかつんが中心だったわたしの目には、とってもキラキラと写ってかっこよかったのです。

舞闘冠の曲を聴くと今でもあの頃のように新鮮にときめきます。だんだん空中分解していったけど、最後の方はソロでも出していただいていて、今思えばとってもありがたかった。




少クラに出なくなったのはあの時からです。
LA留学。
「やらくんの好きな沖縄〜♬」と呑気に修学旅行に行っている間に、当の本人は太平洋を渡っていて、いつ帰るかわからないなんて言います。

修学旅行先で愕然としたのを憶えています。

それもそうですよ。

だって、元担は赤西仁です。

またLAです。

ホテルで叫びました。

「お前もか」



当時は正直「LA、俺はお前を許さない」くらいの気持ちでしたが、ある日突然ひょっこりタダイマ〜って帰ってきて心底安心しました。しかも帰ってきたのも事後報告()

けれどあの時間でやらくんが得たものは大きかったようで、結果としてわたしにとってもプラスにはたらいているので、LA、今回は許してやる。




初単独主演作『道化の瞳』

発表されたときは受験生で、予備校で局メを受信して、たまらなくなって自習室を飛び出してちょっと泣きました。入試で納得の行く結果を出して、晴れやかな気持ちで見に行かないといけない。廊下のベンチでそう奮い立ったっけな〜。

無事に納得の行く結果を出して迎えた春、シアタークリエ。
本編も頭痛くなるくらい泣いたのに、カーテンコールでまた嗚咽するほど泣きました。全キャストに迎えられ、セットを駆け上がって現れる大好きな笑顔。あの景色は一生忘れません。




この10年を語るのに欠かせない舞台PLAYZONE

初めて青山劇場で観たのは2010年で、それから毎年ここに来るたびに「やらくんが宇宙で一番かっこいい」を更新させてくれた場所。特に、ミュージカルで役として歌って踊るやらくんも好きだけど、屋良朝幸として表現するやらくんが宇宙で一番かっこいい。

また、いち表現者として、ダンス番長として、みんなのしぇんぱいとして、その後の事務所内での立ち位置の基盤、唯一無二のジャニーズとしての道を確立していくのが目に見えてきた舞台でもあります。
あと、わたしが個人的にダンスをとても好きになった現場でもある。


一度だけ、ただの一度だけ、青山劇場でやらくんとタッチしたことがありました。

2012年のPZの『ヨイショ!』で、サビ前に目の前に立ち止まったやらくんに震えながら手を出すと、その手をグっと掴んでくれて。そのあとも目の前でサビをまるまる歌ってくれたのですが、なんかもうそのあたりは記憶が薄い。
右手に精一杯の大好きを籠めたあの瞬間は、どの接触イベよりも思い出深いです。


たくさん思い出ができたし、友達もたくさんできた。劇場にいるといつも誰かいた。

「大学のテストが終わってすっきりするまではPZに行かない」というポリシーを頑なに守っていました。だって心から楽しみたかったから!「てぃーみきが青山に来るとゲリラ豪雨になる」と言われても、友達に会うためだけに青山登山するのも楽しかったっけな。

PLAYZONEも、PLAYZONEカンパニーも、PLAYZONEカンパニー担の友達も、わたしの屋良担人生に欠かせない大切なピースです。



あと、こんなこともありましたね。

『青いジャケットの人事件』*1

わたしこの日元旦から泣きすぎて眠れませんでした。悔しかった。

カウコンのやらくんはめちゃくちゃかっこよかったんです。やらくんが宇宙で一番かっこいいって、新年からキャッキャして幸せでした。

それなのに、こんなに素敵な人を、その素晴らしいパフォーマンスを、知らない人がこんなにたくさんいる。
不特定多数の赤の他人とはいえ、わたしの宇宙で一番の人を「誰?」って言われる。
世間に見つかるとかそれ以前に、この現状が悔しかった。

今にして思えば、わたしはまったくの井の中の蛙で、ガキでした。
その後、舞台やミュージカルをジャンル問わず観るようになって、わたしの知らないところに物凄い人がたくさん居て尚且つその道で認められている、ということが見えてきました。
知名度=実力・人気ではない。
やらくんはやらくんで良いものをたくさん持っていて、既に認められているのに、そんなことで落ち込んでいた自分は何様なんだと、今は思います。

でもその時かな。
楽しいときだけいいとこどりじゃなくて、悔しいことも共有するなら、この人がいい。
この人だったら辛くても悔しくても着いていける。
はっきりとそう思うようになりました。
だからあの涙も無駄じゃなかった。




辛い思い出続きになっちゃうけど、あの日のこと無くしてこの人生は語れないので、これも置いておこう。


tea-miki.hatenablog.com


Endless SHOCKはやらくんを好きになった作品。やっぱり特別なんです。それがこんなことになって、自分も少なからず巻き込まれて、いろんな意味でまた特別になってしまいました。
もうすっかり供養したけどね。

SHOCKもPLAYZONEと同じ。
やらくんを好きになった場所で、「やらくんが好き」という気持ちを毎年のように更新してくれた作品。

年々、やらくんだからできるライバル像が色濃くなり、やらくんにしか出来ないことが増え、この後を継ぐ次のライバルなんて現れないんじゃないかと思っていました。

それが今年変革の時を迎える。
後継者に異論はまったくありません。むしろ、彼にこそ継いでほしかった。
そしていつかまた、光一くんとSHOCKが変化を必要としたとき、師弟ふたりが今度はライバル役を獲り合うライバルになるのでしょう。今後が楽しみです。



やらくんが優馬くんにそそぐ大きな愛情の源は、その境遇にあるように思います。メンバーと呼ぶ人たちと道を分かち、ひとりで歩くもの同士。
今でこそひとりでやっているけれど、やらくんはMAのことを絶対に無かったことにしません。

2013年、ジャニーズ銀座に当時のThey武道とひろみ大先生で出たとき。
幸運にも初日のチケットを当て、ずっと見たかったライブの屋良朝幸*2を見られた、最幸の時間の終わりに、やらくんが持ってきてくれた曲。

「僕は昔、MAっていうグループに居て、今日はその曲をやらせてもらおうと思います」

その言葉と『Endless Summer』のイントロで泣き崩れてしまって、まるまる一曲泣きつづけました*3。最前ドセンで辛気臭くてごめんね。でも嬉しかった。やっと叶ったライブ空間に、やらくんがMAを連れて来てくれた。


町田さんが事務所を去ったとき、やらくんは何も言わずに、当時週に一度だったウェブ連載を一週飛ばしました。
その前後で収録されていたはずの少プレでも、やらくんは「MAっていうグループがあって」と話に出していました。

数年後、今はフリーで芸能活動を続ける町田さんの名前を、やらくんがぽろっと連載に載せるようになりました。
事務所を去った人間の話題はタブー扱いの事務所で、かつては「リーダー」と呼んでいた町田さんのことをぽろっと「町田くん」と。


彼の中でMAがいかに大切なものか、口で言わなくても、むしろ言うよりもずっと、切ないほどに伝わってきます。
いつになってもいい。また彼らが同じステージで共演するのを見たい。やらくんならきっとやってくれるはず。
これがそのステージにつながる一歩になることを心から願っています。



辛いことも背負ってファンやろうと覚悟したから、辛いこともたくさんあったけれど、嬉しいことや楽しいことのほうが圧倒的に多いです。
そのひとつが、Jr.を卒業したこと。

tea-miki.hatenablog.com

このブログだって、きっかけは別のJr.が事務所を去ったことだけれど、やらくんを応援するなかでずっと考えてきたこと。それこそ辛いこと悔しいことの種でもありました。

tea-miki.hatenablog.com

ただサイトが独立しただけじゃない。ただ「(ジャニーズJr.)」じゃなくなっただけじゃない。これは大きな一歩だ。

昔、未だデビューしていなことに関してやらくんが「まだスタート地点にも立っていない」と言ったことがありました。
けれどそれから多くの舞台に立ち、自分の道を切り拓いた彼が「スタート」だと言った。
その言葉に、同じ方を見て歩いてこられたこと、この先に見据えているものもきっと同じ方にあることが、なんとなくわかった。


わたしが望むのと同じ場所に向かってくれていると、信じて着いていける人。
1,2年周期で推しが交代するわたしがここまでついてこられたのは、やらくんがそういう人だったから。

ミュージカルの役としてだけではなくて、屋良朝幸として踊るのを見たいと思ったら、「そういう機会を作りたい」と言ってくれる。

振り付け仕事が増えてありがたいと思う一方で、このまま裏方に回ってしまったら…と不安になると、「自分のパフォーマンスありきの振り付け、演出」「自分はプレイヤー」と言ってくれる。

ファンの気持ちを知ってか知らずか、と以前は思っていたけれど、今ははっきりとわかる。
やらくんはいつもわかってくれている。


ただかっこいい、かわいいと思っていた「屋良っち」が、尊敬する人になって、いつからか最上級の愛情と敬意を持って「やらくん」と呼ぶようになった。
もちろん家族でも友達でも恋人でもない。リア恋でもない。「好きな芸能人」で済ますには重い。
この世にたった一人の、特別に敬愛する他人。それがわたしにとってのやらくんであり、「担当」です。

おたくって愛情の種類が多くて幸せです。こんなに特別な人が居ること、おたくをやっていなければ知り得なかったであろう、顔も知られていない他人を想う気持ち。おたくとしてだけではなく、人生における大きな財産だと本気で思います。そう思うようになったのも、きっと担当がやらくんだったから。


一途な10年だったとは口が裂けても言えません笑 でもわたしはわたしなりに、やらくんのことで一喜一憂しながらファンやってきました。
今の楽しい推し活だって、元をたどれば全部やらくんから始まってるんです。

やらくんだけ居ればおたくとして生きていけるとは思わないけれど、他に推しが何人居ても、やらくんが居なければ生きてこられなかった。


「好きだってことを忘れるくらい、いつも好き」*4

そんなふうに、これからもわたしなりに、やらくんを好きでいられたらいいな。

ありがとう。大好きです。今までもこれからも、宇宙で一番信じてます。

*1:あえて詳細説明は割愛。

*2:シアタークリエというロケーションもあってか、本人としては「舞台」という認識が強かったようですが

*3:まるまる一曲背中を撫でてくれていた友人、ありがとう。

*4:スーパーリスペクトすずめちゃん from『カルテット』